exhibition "NOWHERE"

artist:mamoru, 下道基行, Tuan Mami
2011.10.29 − 11.20, 国際交流基金、ハノイ、ベトナム

写真: 下道基行

テキスト:高橋 瑞木、「美しいと言うこと」の自由について(展覧会小冊子に掲載)



gallery view

front: Mamoru Okuno, etude no.11 2 fans and 200 tin hangers
right: Tuan Mami,The Celebration of Our Monet and Love
back, Motoyuki Shitamichi, connection

"We pass by without knowing it, and yet there it is." (カタログのアーティストステイトメントより)



etude no.11 variation with 2 fans and 200 tin hangers

2011、サイズ可変
ワイヤー、ブリキハンガー、扇風機



installation view

 

「ギャラリーの中と外をつなぐこと。

ハノイで見かけた生活の風景。

ストリートにせりだしつつ、ありとあらゆるものを使い洗濯物が干されている。

もしも洗濯物が乾いてとりこまれ、ハンガーだけがそこにのこったなら、そして風が吹いたなら。」

instruction

installationview
etude no.11
outside installation


THE WAY I HEAR / HAY LANG NGHE, HANOI, 2011

2011, サイズ可変
ブリキ箱、ノート、耳栓



installation view

instruction
ear plugs
THE WAY I HEAR
HAY LANG NGHE

installation view

2011年10月15日のブログより

「ハノイに来てから15日目。

最近は毎日数回ほど、リスニングノートをつけています(マリー・シェーファーという作曲家が昔に紹介したエクササイズに近いものです)。約10分間じっとして、ただ聞こえてくる音を箇条書きで書き留めたり、音を頼りに情景が想像された場合は描写を書き加えたりしています。例えば、今だと「表の通りで誰かが水を打っている音が聞こえる」、「階下の食堂でおにいちゃんが中華鍋を振ってコムラン(チャーハン)を作っている音が聞こえる」とか既知の情報や認識とその場で聞こえてくる音が組み合わさって感じられる内容を「音」として書き留めるわけです。

これを、いろいろな場所、時間、曜日で行うと、書き記される場面は変わるのですが、共通項(車やバイクのクラクション)が聞いてるうちにわかってきてハノイのサウンドスケープみたいなのが頭の中に組み上がってきます。その時々、場所場所で、ドラマチックな「面白い音」(突然のスコール)や、「特徴的な音」(物売りの叔母さんのかけ声、路上の床屋さんのハサミの音)など、ランドマーク的な音という意味で「サウンドマーク」とでも言えそうな音に出会うこともあります。

どの街でも、住んでいると、こういう音の差異がなくなり、ただ聞き流す対象としてだけ認識されていくことがほとんどだと思います。なので、部外者として私がこういう事を行い、再認識する機会いを作るだけでも何かしら発見があったり考えることがあったりするかもしれません。ただなぜこのリスニング行為をハノイで行い、なぜハノイの人たちに提示する必要があるのか、自問自答しています。

こちらに来る少し前から、ベトナムの歴史を古代から、近現代にわたって一通りだけれど読み通しています。彼ら(複雑な民族変遷があるのであえて「彼ら」とします)の数千年に渡る中国との関係、他の東南アジア諸国との関係、仏領時代、抗仏・抗日、ベトナム戦争、国内の権力闘争やアジア通貨危機、そして現在のベトナムを動かす自由路線ドイモイ政策。読んでいて、改めて現在のハノイの経済的な発展や、都市化されてゆきつつある街のほこりっぽい姿というのは、ここ百年くらいで考えた場合特にレアな状態なのではないかと思い至りました。

例えば、私は自転車で移動していますが、ほとんどの人達はバイクにのっています。でも10年前は圧倒的に自転車だったと友達は言います。つまり街に溢れかえっていて、耳栓をしようとも聞こえてくる、ほとんど騒音と思われているこれらの音も実は「レアもの」希少な音の塊なのかもしれない。レアだから「良い」という事ではないですが、人がこうしてとにかく生きていて活力に溢れて暮らしている事の証だとすれば「聴くに値する音」じゃないだろうか。だとすればわかりやすい「サウンドマーク」を探すことよりも、ただ淡々とそこにある音を書き留めておく事がそのものが重要かもしれない。そういう思いに至りつつあります。

そんなことをふと思った時に、今年の4月に出版した本のあとがきを書いた経験を思い出しました。ちょうど出版を控えていた時に東日本大震災があり、追記という形で私は「希望に満ちた日常の音が響いてくる事を心から祈ります。」と書きました。当たり前ですが、音が聞こえるということは、そこの周辺に何かが行われていて、誰かが居て、その音が聞こえる範囲に別の誰かも居て。。。最低限の「社会」がある、という事の証明だと思うのです。無音や反響がない状態を音用語でも「dead」と表現しますが、まさに音がないというのはそういう事なのです。

昨日は、展示の際にこれらの音の記述を入れる箱を作ろうと思い、ブリキ屋にいって箱をオーダーしてきました。思った通りになるかわかりませんが、私を含めて数人で聞き取った音や、その記述というのは、きっと何かしら価値があるものなんだ、という事を簡単なやり方で提示出来れば、と思ったのですが。果たして、どうなるのでしょう。仕上がりりに期待!

ちなみにこの作品は「The way I hear」というタイトルの予定で、私の他に、4人の映画専攻のベトナム人学生達の協力を得て、グループワークを行うことにしています。それぞれのWayが音の記述から読み解かれ、同時に読む人たちが記述から何かを想起できたとしたら、彼らのWayともつながるだろう、と期待しています。」



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