「美しいと言うこと」の自由について


高橋 瑞木(水戸芸術館現代美術センター学芸員)



「美しい」ということについて、Mami、下道基行、そしてmamoruの作品を通して考えてみようと思う。なぜなら、私たちは最近アートを見ても「美しい」とは言わなくなっているから。

「美しい」の変わりに、最近よく使われるのは「興味深い」という言葉だ、と言ったのは、批評家のスーザン・ソンタグだった。彼女は「美について」というテキストで、「美」という価値がどうして「興味深い」にとってかわられたのか、とても「興味深い」考察を述べている。(1)

「美しい」という言葉は、規範化されている表面的な形式を指し示しているような印象を与えがちだ。その形式は絶対的で、厳格な価値を備えているようで窮屈な感じがするし、その規範から逸脱するユニークさは排除されてしまう印象がある。だから、この窮屈で保守的な「美しさ」からより自由で幅のある価値を求めて、「面白い」という言葉が使われるのだろう。「面白い」は、確かに便利な言葉だ。ある作品をどうにも受け入れ難いと思っても、とりあえず「面白い」と言っておけばその場のお茶を濁し、自分の価値判断に猶予を与えることができる。

さて、Mami、下道、mamoruはそれぞれ身体、写真、音と三者三様異なる素材を媒介にアーティスト活動を実践している。しかし、彼らに共通するのは、プロダクツとしてのアートを作るのではなく、人と人との関係や、普段見過ごしていたり気に留めない事象に対しての気づきなど、形を持たない瞬間を作り出していることだ。アートをモノづくりだと考えるならば、彼らの実践はそこからはずれたちょっと「面白い」ものだが、果たして本当に「面白い」という言葉で片付けてしまうことがふさわしいかは疑問だ。それは、彼らの実践の根底に「美しさ」の発見があると思うからだ。人と人のコミュニケーションの課程で生じる笑いや、日常生活の中でさりげなく、あぶくのように生まれる創造性、普段何気なく使っている日用品がかすかに奏でる音、こうした現象にこの3人の作家は愛おしさをもって眼差しを向け、実践を通してアートへと昇華させる。

私たちが目撃する彼らの実践は、人が生活している場所であれば、「今、ここ」でも、「どこでもない場所」でも、共有されうるささやかだが普遍的な「美しさ」への誘いである。そのインビテーションは、今や世界のどこにでも開催されているアートプロダクツが溢れる市場優先型のアート界とは、逆の方向を指している。だから、わたしは彼らの実践を見聞したときに勇気づけられ、こう感じることができるのだ。日常生活の中で、もっともっと「美しい」と言っても良いのだと。そして、アートは「美しい」という言葉を発することのためらいから、解放してくれるものなのだと。

(1)Susan Sontag, An Argument about Beauty, Daedalus, Vol. 131, 2002





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