価値構造を転換する日常的実践

服部浩之(国際芸術センター青森、学芸員)



 ラーメンを食べる、ラップをクシャクシャにする、ハンガーを触れ合わせる、そんな何気ない日常における所作を、積極的に創造的な生産活動として誤読することで、音の経験へと変換するのがmamoruというアーティストだ。mamoruは日々私たちが耳にしている生活のなかで不可避的に生じる音に美を見出し、それを音楽的体験として抽出することで、ほとんど無価値だと思われているものに価値を与えていく。

a few notesとetudeという態度表明
 mamoruのウェブサイト・ドメインには"a few notes" ということばが採用されている。このことばは直訳すると、「いくつかのメモ」となるが、noteには「音符」という意味もある。そして彼の近年の作品群のタイトルである"etude"ということばは、「練習」を意味し、音楽用語では「練習曲」を示す。これらのことばを手がかりにすると、mamoruの活動のモチベーションがよく見えてくる。「ありふれて気にもとめないような行為を習熟の対象としてしまう。」 と言うように、mamoruが価値を見出すのは、誰もが知っているけれどほとんど素通りするような音と、それを発生させる所作にある。本のページをめくる音や皿にラップをする音など、日々の何気ない動作のなかで副産物的に発せられるノイズとされる音に着目し、その音を愛でるのだ。mamoruは人が「無価値」だとか「どうでもいい」と思っている日常にあふれる存在の「どうでもよさ」に着目しており、パフォーマンスやワークショップなども内包した作品を介して、そのどうでもよさを普遍的な価値に転換し、他者と共有することを試み、日常生活を優美に生きるための様々な修練をしているのだ。”etude”や”a few notes”ということばは、日々の生活を単なる消費行為として受動的に過ごすのではなく、それを能動的に創造行為に読み替えられるよう、意識的に気付きの多い日々を過ごそうという生活態度を表明するものであると思う。

愛でることと対話的空間
 mamoruのこの価値観は彼も言及している茶の湯を例に挙げるとよく見えてくる。彼と鑑賞者の関係は、茶の湯における亭主と客の関係に近い。茶の席では、亭主は客を最大限もてなすように趣向を凝らし、その日の状況に応じて、茶碗や茶釜を選び、道具を精選し、そして床の間に飾る軸や生ける花などを、ひとつひとつ細やかな気配りにより吟味し配置して茶の席を設える。客は亭主の心遣いとその背後にある意図を丁寧に読み込み、対話し、それを主客が共に愛でるのだ。即興演奏を続けてきたmamoruは、常にその日の会場や観客に応じてパフォーマンスの流れを柔軟に変化させ、相手との対話を重視するかたちで演奏を組み立ててきた。mamoruがつくる音の空間は、主人である彼が用意した日常の品々とその音を、彼の誘導に従い、あるいはそれを裏切るように、客が自ら面白みを発見し読み込むという応答関係により成立するのだ。
 また、茶の湯では音で場面の進行の多くが判断される。客人は、末尾の場合は茶室に全員が入ったことを知らせるためににじり口の戸をピシっと閉めたり、畳の上をスッスッと摺り足で敢えて音をたてて移動したり、いただいたお茶をズーッと飲み干したりする。また亭主はそれらの音で場面の展開を判断し、釜の湯の沸く音の変化で湯温や茶の立て時を知る。ひとつひとつの音には全て意味があり、それら最小限の要素の連鎖で全体が構成される茶の湯のミニマルさは、そのままmamoruのetude作品における最小限の行為を切り取り再構成される音空間にも見出すことができる。全ての所作には明解な因果関係があるのだ。

音楽的手法〜サンプリングとリミックス
 次にmamoruが「接ぎ木」 的手法と表現する、サンプリングやリミックスにより形成される作品構造に言及したい。彼は、ものに溢れた今の社会においてこれ以上新しいものは必要ないという思想をベースに、既にある物事のどこかに新たな意味を見出し、そこに何かしらを加味することで、劇的な、あるいはささやかな変化を生じさせ、人の思考を揺るがしたり感動を与えたりできると考えている。mamoruは元々ジャズピアノを学んでいたが身体を壊しピアノが弾けなくなり、しばらくのちに即興演奏をはじめる。そして即興が徐々に変化していき、現在の観客と能動的に関わるよう彼をとりまく環境や日用品を用いて音を発する/聴く作品へと至った。
 《etude no.7 プラスチックストロー(fig.1)》は、ストローを吹いてみたら意外といい音がすることに気付き、録音してサンプリングし即興演奏に用いるという過程を経て生み出されたものだ。ピアノ演奏が出来なくなってはじめて眼前に広がる音の多様さを発見し、その音に聴き入るようになった。ストローは飲み物を飲み干したらゴミとして捨てられてしまうが、そのストローを「吹く」ことで楽器に変換し、まったく別の機能を与えた。また、mamoruを中心に皆がストローを一生懸命吹いている様子の滑稽さは和やかで、共有される場の空気も心地よいのだ。なんでもないストローは各人に持ち帰られることで、特別な存在に転換される。ストローはmamoruのポジティブな読み替えと接続により文脈化され、価値を与えられるのだ。
 また《etude no.39 インスタントヌードル(fig.2)》は、インスタントラーメンをつくって食べるまでの行為に気の利いた小さなアレンジを加えることで、食事という消費活動を、音を奏でるというある種の創造的生産活動に変換するものだ。これは彼自身のパフォーマンスとして披露するだけでなく、観客が体験できるインスタレーションとしても成立させている。美しいと認識されることなどない固形のインスタント麺を敢えて透明の容器にいれることで、それを着目すべき存在に換え、お湯が注がれてラーメンができるまでを特別な時間にする。ラーメンをつくる過程においても、トッピングに緑の香草や白いもやしや黄色の天かすなどを、調味料に胡椒に醤油やラー油などを多数用意することで、各人がそれぞれ能動的に選択して調理するという小さな創造性を発揮する場面を挿入し、インスタント麺をつくって食べるという行為をひとりひとり独自の特別な体験に転換してしまうのだ。湯を沸かし、たのしく調理し、湯を注ぎ、そっと耳に近づけ音を聴く。麺が湯を吸う音が止んだ頃にはちょうど食べ時で、今度はそれをすすって食べる音をまた聴く。ほんとうになんでもない行為だけれど、そこにささやかな遊び心とスパイスを加えるだけで、その音を耳をかたむけて聴く価値のある音楽体験にしてしまうのだ。

演奏/鑑賞の相互作用により成立する空間
 ACACでは、天井高6mで大きなガラス面をもつ非日常のギャラリー空間に、いくつかの家庭から貰い受けたり借りてきたりして入手したダイニングテーブル、事務机、茶棚、ソファ、冷蔵庫、扇風機にハンガーラックなどの生活用品を丁寧に配置し、その壁面には額装されたドローイング計9点を掛けた。(fig.3)ホワイトキューブに設えられた日常生活のため家具・家電や壁に掛けられた絵画が鑑賞すべき作品のようにも見えるが、それだけではない。これは観客が自身の手で音を奏で耳を澄ますために、極めて音楽的な作法で生成された演奏と鑑賞を同時に経験する空間なのだ。壁にかけられた絵画は音を奏でる方法を示す楽譜(スコア)(fig.4)であり、扇風機やハンガー、冷蔵庫の中の氷やガラス瓶は音を発する楽器である。そして、その空間を訪れる観客は、それらの楽譜と楽器を用いて自ら音を奏でる演奏者であり、同時にその音を聴く聴衆でもある。楽譜の指示に従い冷凍庫から紐が付けられた氷を取り出し、それを窓の前にあるフックにかけると、徐々に氷が溶けていき、水滴がその下に置かれたガラス瓶に落ちて美しい音を発する。それを後ろのソファにゆったり座って聞く。(fig.5)また同時に脇にあるハンガーラックの前に設置された扇風機のスイッチをオンにすると、扇風機の風がハンガーを揺らし触れ合う音が聴こえてくるという具合だ。ひとつだけの音の体験を抽出するのではなくmamoruが発見してきた様々な日々の音をアンサンブルのように同時に奏で体験できるハイブリッドな空間に仕上げた。鑑賞という受動的な行為が、演奏という能動的で生産的な行為を経ないと成立しない転倒感も小気味よいのだ。

今を生きること
 mamoruの活動の根底には「聴く」ことや「耳をかたむける」ことによって、日々の生活をより豊かなものにしようという意思がある。私たちの耳はつねに外界にさらされ様々な音を拾うが、多くは無意識のうちに聞き流してしまっている。mamoruは耳に入る音をなるべく丁寧に聴きとり、その中から取捨選択して他の人にはあまり価値を感じられない音にも面白みを見出し、それをポジティブに誤読し再構築することでetudeという音楽作品に昇華する。
 「自分は、今生きている人と話がしたい 」とmamoruは言う。彼は作品化を通じて他者と日々の発見や驚きを共有することで、眼の前にある世界をより美しく豊かに生き抜く方法を模索しているのかもしれない。「日々に溢れる音を愛でる」という彼の態度を理解し、まずは日常生活の細部にまで意識を巡らせてみることで、私たちも自分なりの「愛でる」対象を発見できれば、それを共有する対話を通じて、世界をより愉快にサバイブするそれぞれの手法を見出すことができるだろう。ネット上の世界では既に生産・消費の相互交通が非常に活発で、消費活動が生産活動に転換されたり読み替えられることは多々あり、その境界は極めて曖昧だ。現実世界において、既に存在するものを使用する技術、つまり消費を単純な消費に終わらせるのではなくオルタナティブな生産行為に変換する彼の創造的技術は、日々を生きる基本的態度としても私たちにとって非常に示唆に富んだものではなかろうか





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