FIELDNOTES/鳥取セッション、多摩美セッション

これはほんのメモ書きに過ぎない、きっと何度も書き直したり書き加えたりするだろう、という前置きをした上で、鳥取県内8会場にて(湖山、米子、大山、浜村、倉吉、智頭、湯梨浜、鳥取市内)、5月24日ー6月1日(DAY1)と6月14日ー22日(DAY2)、合計9回×各2日(3+2時間)=延べ18日間ー45時間、100名近い参加者と共に開催したワークショップを通じ、日々感じ、発見し、考察し、試行錯誤し、また推敲し、思索を巡らせ、妄想を走らせ、もしかしたら・・・だとしたら・・・やってみるか、というループの中で、今のところ想像するにいたったようなことを書き記そうと思っている。鳥取での18回のセッションに加えて同時期(DAY1とDAY2の間)に多摩美術大学彫刻学科の「実存実習」の一環としてDAY1とほぼ同内容のワークショップ(3時間)を40名ほどの学生達と行う機会があり、そのセッションも含めた思索になると思う。



【疲れない、どころか元気になる】
高密度スケジュールであったところから得た実感から生まれた考察がある。それは「声を挙げ、絶やさない」ことは「疲れない」という事だ。正直なところ、出来上がったスケジュールを見ながら「なんでこんなことになってしまったんだろう?」とかなりビビッていた。わたしは思索も制作もリサーチもパフォーマンスも準備はもちろんやれるだけやるが、結局のところ現場・本番で見出すひらめきや確信みたいなものを頼っているため現場・本番がないと何も進まないということがある。に、してもだ。この高密度感はやりすぎではなかったか?むしろ現場主義であるがゆえに体調の良し悪しは全てを左右する場合が多い。(そのため日頃からかなりの時間を身体のチューニング/トレーニングに使ってはいる)
今回の連続ワークショップDAY1の初日は鳥取大学芸文センターにて行われた。緊張はしないが、未知なる残り8会場でのワークショップ!?があるという事実と未来が頭のどこかにはあったと思う。そのことで自分の力をセーブしないように、むしろあと8回もあるのだからなるべく今日の本番中に捉えた流れを活かすこと、思いついたことを迷わずにやる切ろう、そんな気持ち。と、言いつつ、全力×9日間の本番っておそらくミュージシャンだった頃を含めても一度も経験がないかもしれない・・・などと考えていたしワークショップ中にも「果たしてどうなるんでしょうねー」などと漏らしたり、周りの人達にもそんなことを話していた。心の底では「いや、ほんとにどうなるんだろう?」という好奇心もありつつ。
たぶん2日目の米子会場でもうすうす気づいていたと思うのだが、3日目の大山会場ではっきりと認識し「え、本当かな・・・」と驚き、4日目には「声を挙げ、絶やさない」ことは「疲れない」!という確信を得て完全に勢いづいた。いろいろな発見があって単にアドレナリンが出まくって興奮しているだけだろうか?という疑念もあったので、今回の企画のきっかけである鳥取県立美術館で2026年に企画されているコネクションズ展担当キュレーターで全てのワークショップに同行してくれた赤井さんにも時折確認していたが「確かに・・・疲れてない・・・かも」という証言(?)を毎回得た。
これを説明するために幾つかの要素がある。まずよく言われていて知られているところでは「Well-Being/ウェルビーイング」(心身ともに健康な良い状態)の向上。合唱行為にはWell-beingを高める効果が認められている。脳神経学的な研究でも実証されているし、実際にセラピーなどに活用されることもある。例えば自分の声がグループでつくるコレクティブな声々の一部となることで精神的な充足を得たり、単純に発生がもつ全身運動の要素から満足を得たり、多角的に効果がもたらされると考えられていたりして、確かにそうだな、とワークショップを進めながら感じる瞬間は多々あった。だが、ことわたしだけに限って言えば1時間ほどのプレゼンテーション/ちょっとしたレクチャーパフォーマンスみたいな部分もあるし、当然全体をリードする、という役割もあるため、上の要素だけでは疲れと相殺する程度しかないようにも思うのだが、実際のところ私は「疲れない」どころか、本当に驚いたことに、日を追うごとに間違いなく「元気になっていった」のだ。これはどういうことだろう?とわたしなりの実感を言葉にしてみて生まれた<仮説>がある。
「声」を振動エネルギーだという風に捉えて考えてみる。と、集まった人たちそれぞれがもつ「声」は「1」(と仮に言える)だとする。と、15人集まった場合に、それぞれの人達はそれぞれの「1」を持ち寄ってくる。と、発声時に会場には「15」の振動エネルギーが生まれることになる。と、考えれば&単純に言えば各人は「1」を提供しただけなのに、結果的に皆が「14」ずつ受けとることになる。と、すれば3回くらいのセッションを繰り返しているうちに、来た時は「1」だったそれぞれの人達のエネルギーは帰る頃には「40」を超えるまでになっている。と、すると3時間のワークショップの疲れや慣れない環境や内容からくる疲れetcを適当に差っ引いても、帰り路にはきっと「30」くらいはまだお持ち帰りエネルギーが保たれている。と、考えられるんじゃないだろうか?わたしはこれを何日も立て続けに行っていたことで、重加速度的に(振動)エネルギー値が高まっていき、連日のプレゼンテーションや合計100名以上の参加者達と接するためのエネルギーや移動疲れなどを差っ引いても、総じてvibrantになった/活き活きしてきた。と考えられるんじゃないか?

追記:DAY1とDAY2の間の時間、わたしのエネルギー値がどんどん下がっていくのを感じていた。これを「結局、疲れは溜まっていたんじゃないか?」と捉えるのか上の妄想・仮説の正しさを裏付けることと捉えるのかは難しいところかもしれない。

【振動コミュニケーション】
vibration繋がりでもう一考。わたしたちの「コミュニケーション」は言語的なものに頼っている、と思われがちだが、実際はまなざし、声色、しぐさ、その他もろもろのレイヤーからなりたっているわけだが、という前提で言うと、実はそこまで言語層は分厚くないと思っている。むしろもっとも基層にあるのは「振動」じゃないか?というのがわたしの実感から来る立場だ。普段から、制作においてもわたしは人一倍言葉にこだわりをもっている自負がある。時に自分でも面倒なくらいに。も、関わらず、あるいはだからこそなのかもしれないが、なんにせよ実はわたし達は「振動コミュニケーション」を常々行っているんじゃないか?と思っているのだ。これは今回のWSから得た考えというよりもともとわたしが常々感じ、その考えをもとに世界を観察している、ような事で、WSの際にもいくつかの会場ではこの話をした。ところ、幾つかの面白いフィードバックと観察があった。
まずわたしが気づいたことはDAY1のセッション後、あるいはDAY2で久々に集った時に参加者の面々(に多少の入れ替わりがあったりもしたが)の距離感がぐっと近くなったような気がしたのだ。実際、ワークショップ中に一緒に「声を挙げ、絶やさない」ことを試みてはいたが、3時間とか2時間も、いわゆる「会話」はほとんどする機会がないのだ。だけどふと見ると初めて会場であった人たちが帰るときに連絡先を交換していたりするのを見ていると、ワークショップ中に「隣の人を注意深く聴く」場面があったり、「隣の人の声を引き継ぐ」ようなことをしているうちに「振動コミュニケーション」が生まれ言語層を突き抜けてもっと基層の部分に近いところで思わずディープなコミュニケーションが生まれたんじゃないだろうか?と思いたくなる感じさえすることもあった。逆にもともと関係性がある間柄の人達が多い会場(知り合い同士ということ)では、セッション中に独特の同調・共振が働く場面もあったように思う。
とても興味深いフィードバックとして参加者の一人からセッションに参加した後に「WS(DAY2)には出られませんでしたが、家ではハミング(とくに愛情ハミング)を続けています!子どもは、興奮状態であっても、私がハミングを始めると、なぜか恥ずかしそうに笑みを浮かべながら体をくねくねさせ、静かになって近寄ってきます。そのまま眠りモードに入ることもあるので、助かっています。笑」というメッセージを受け取り、振動コミュニケーションが言語層がそもそも固着してもなく、分厚くもなっていない子供にとっては重要なんだな、と思ってみたり、この方のいう「愛情ハミング」という方向性がはっきりした声による振動の在り方に深く共感したりしていました。ちなみに同じ方から「子育てを始めてから、(子の機嫌をとるために)単純なフレーズ(たとえば「オムツ替えよう」「ごはん食べよう」など)でも、無意識的に謎の旋律でオリジナルソングにして歌ってしまっている自分がいます。そうすると、それを聴いた子も、ほろっと笑顔を見せるから不思議です。」というメッセージも頂きました。確かに本能的にこういうことやってたりしますよね。と思って思い出したことが一つ。随分と昔、オーストリアの田舎町で滞在制作をしていたときにお世話になった方が結構しょっちゅう鼻歌を歌っていて、その感じがとても好きだったので、ある日「いつも鼻歌を歌ってるね。(わたしは<いつもご機嫌だねー>というニュアンスで言ったはずだ)」と声をかけたところ「そうねー。なんか仕事とかで嫌なことがあったりするじゃない、そういう時はね鼻歌を歌って切り替えるのよ」と、思わぬ答えが返ってきたことがあった。なるほど、ご機嫌だから鼻歌を歌うわけじゃなくて、むしろ逆転の発想というか、あのハミングは彼女にとってのセルフ・チューニングだったんだ、と思わされ、ずっと忘れられない言葉となったのですが、今おもうと彼女が自分をチューニングするついでにわたしのほうもその振動でなんだかいい気分にチューニングしてもらっていたのかもしれない。
身近かつやや卑近な例になるが、アルコールなどでやや酩酊しているときなどもある種の振動コミュニケーションが主体化している気もする。言葉だと支離滅裂だけど、なんか言いたいことがわかったり(いやわかってもないのかもしれない・・・)することもやや関係しているだろうか?
他に「振動コミュニケーション」の実例?で言うと、海外で時間を長く過ごしていると時々あるのですが、言葉がまったくわからないはずなのにかなり詳細にまで相手の言おうとしている内容、あるいはまだ話していないはずの内容も含む場合もある、が「わかる」ことがあります。わたしの場合はこの現象が起きるときは、コミュニケーションをとっている相手とのやりとりで、何かしらインスピレーションを受けたり、交歓が発生したり、とちょっとハイな状態に近いものが感じられている場合が多いのですが、通訳の人がいるのに、訳してもらう前から相手の顔と音だけで「あーそうそう!」と反応してて、驚いた通訳の人にむかって「こういうことでしょ?」と確認すると「え?なんでわかったの!?」みたいなことがある。これはたぶん共振がある程度以上のレベルになると言語層・意味的な会話ではないところで理解が発生し得るからだと思う。実際に相手の言っている言葉がわかるわけではないが、相手が言葉を使って投げかけてくる音・響き・振動によって理解するのだ。

【子音の「発見」、からの音声学への興味発生】
「声を挙げ、絶やさない」のセッションでは「絶やさない」というマスターインストラクションがあるため、必然的にドローン系の音(ひたすら長ーく響く音)がその中心をしめることになる。そのため、わたしは音の種類として「母音」(あ、い、う、え、お)と口を閉じた状態で発声する鼻音、いわゆる「ハミング」(ん)、を念頭においていた。
ちなみに、それぞれの言語体系には違った母音があるが、おおよそ主要な言語の場合5−15音くらいだと言われている(ちなみに英語は方言という地域バリエーションも含めると11−13音くらいあるとされ、結構多い)。5母音システムが最も多く見られるそうで、日本語もその一つだ。日本語は50音に濁音と半濁音が使えるものも加えると、清音が約45音、濁音が20音、半濁音が5音の合計70音程度、ということになるらしい。が、鳥取での連続ワークショップの前は<もちろん多少の違いはあるかもしれないが、「か」だろうと「ざ」だろうと圧倒的に「あ」の音が聞こている状態になるだろうから、「母音」に注意を払うことが大事だろう>と思っていたため、そこまで「子音」に関しては興味をもっていなかった。「子音」ということで言うとそうなのだが、「単語」という意味では「母音」以外の音を重ねることに興味は持っていた。
初日の湖山会場では試しに一字一息を使い「こえをあげたやさない」という10字を発声してもらった。15人くらいの声々が同じ文字の連なり=連続する発音を発声していくときにどういう響きになるか興味があった。単語や文章として聞こえるのだろうか?それぞれの文字がいろいろな場所から聴こえるのだろうか?あるいはやはり「母音」が支配的な音響になるのか。息の長さというそれぞれの人固有のパラメーターがどう「聞こえ」に影響するのか、など。
結果はというと、正直なところあまり何も「聞こえ」てこなかった。ところがセッション終了後に参加者の一人が「皆が同じフレーズを発声するんじゃなく、それぞれが選んだ単語とかにすればもっとそれぞれの『声』になるんじゃないか?例えば・・・小籠包とか!」というインパクト大なフィードバック・提言をしてくれた。これは盲点というか、確かにおなじ字列・単語・文章を使うより、マイ・ボイスさながらに、リスニングからむしろそれぞれが単語や文章を選ぶ「マイ・ワード(マイ・センテンス)」ほうがよっぽど「声を挙げ、絶やさない」の方向性とあっている。
早速、翌日の米子会場でマイボイス合唱をマイワードで試してみたところ(というのは、一息ごとにマイワードの構成文字を発声してみたという意味だが)、不思議なことにハミングの時と比べるとマイボイスの相互干渉、つまり往々にして起こりやすいバラバラに始まった音程が3〜1音に収束していく現象(特に息継ぎの度に聞こえが強い音に引っ張られる傾向があるように思う)、がかなりの度合いでキャンセルされている感があった。想像するに、おそらくマイ・ワードを意識することで、次の文字をすでに脳裏に固定させることで強固な集中を生み、ある意味では周囲をリスニングするキャパがやや削られるのかもしれないし、音程的要素が安定するのかもしれない(あたかも遠くを見ているときに身体バランスがあがるような感じで)、結果としてマイボイスの原形維持率が高まったのではないだろうか。
各人のマイワードが入り乱れる中で、声質的に聞こえが強い人だったり、そもそもワードの構成文字が少ない(例:ねこ、いぬ、雨など)場合に発してるワードが把握できた場合もあったが、依然として誰が何のワードなのかは基本的にわからないし、別の文字が同時に重なっているカコフォニー状態に意味言語的な要素はあまり発声していなかった。ただし育種類もの子音と母音の組み合わせからなる文字が生み出す響きのバラエティー、口の形が異なることで倍音も変容し、全体の響きもハミングのときのシンプルさからやや異なる風合いであった。
さらに3日目の大山会場では会場固有の残響が深く、声の重なりが強調されやすい環境であった。ハミングによるマイボイス合唱に、あるきっかけを感じた人が口を開き「あ」音に切り替えるという発声を試してみたところ、「あ」音がハミングを駆逐してしまう印象が強く、おたがいの音も聴きとりにく気がする、という意見がでた。その流れでわたしはいったん「あ」音を封印して他の母音を試そうと思ったのだが、参加者の一人が「あ」じゃなくて
「ら」でやってみよう、その方がソフトな印象になる気がする、という提案をしてくれた。結局のところ母音が強調されるから同じ結果になるのでは?と思ったのだが、実際にやってみると期待したほどのソフト効果はないものの、「あ」と発音するときと「ら」と発音するときの声々の印象は確かに違うものであるように感じた。子音と組み合わさることで同じ母音もちがう側面が引き出されるのかもしれないし、文化的、言語経験的に「あ」と「ら」では発音する人間の音の強弱やコントラスト、ダイナミクスのもたせかたが変わるのかもしれない、明確な理由はわからないが、興味深い提案と感触はわたしの中である方向性をもった興味へと変わっていくこととなる。
DAY2では【じゃない音】(いま発声している音とは違う音、あるいは隣の人の発声している音とはちがう音、のように基準となる音と異なる音という意味)という音のつくりかたを紹介し、その付加要素として文字(子音、母音、半濁音、濁音)も変えてみる、ということを五十音表を手渡し発声のエクササイズに組み込んでみた。これはまだまだ整理できていない領域なのだが、その時々でどういうわけか<「みー」良かったね>とか<「つー」の時に息継ぎのタイミングが違うから、あちこちでTsu音がパラパラと聞こえて面白かった>、<あーあれ「ざー」だったんだ、「まー」だと思った>などいろいな反応から、今後の実験のための種が見つかったような気がする。
ワークショップ後にこのあたりをもう少し考える糧として、音声学の入門的な論文や動画などを少し漁ってみているところだが、母音の種類の違いや、基本的な、アルファベット的な字数の違い・バラエティーなど、今後の声挙げプロジェクトで、特にいろいろな国・地域、言語エリアでセッションを行う際に掘り起こしてみたいと思う点である。

【人数】
非常にシンプルなパラメーターであるが、様々な条件下で行ったセッションからの考察があたかも一定の環境から得たようなものに書いてしまう、考えてしまうこともあるが、明らかに決定的な影響を与える要素が「人数」だ。だいたい15−20人規模(そしてグループを構成する個性にもよる)では比較的安定し「ひとつの声(々)」として感じられる場合が多かったが、多摩美での40人を超えるとのワークでは、個々の声からなる「ひとつの声(々)」という聞こえというよりも「群声」(多数の声々がひとつの場に群れている)と言ったほうが良いような、必ずしも雑多ではないが、おそらく声々間のリスニング強度(そしてそれによって互いに受ける影響の度合い)が随分と違う性格の物になっている感じがした。
バイノーラルマイク(人の聞こえを再現する録り方ができるイアホン型のマイク)をつけ、その「群声」のなかに割って入っていったときの録音をあとから聞き直すと、現場での聞こえ方よりも、個々の声が響きあっている様、その変化・干渉のディテールを感じることができたが、絡み合った藪に入り込んでいくような印象をうけた。ここで言う「藪」的なイメージは決してネガティブなものではない。藪という総体的な状態は、それを構成する何種類もの雑草がそれぞれのモチベーションと、全体に影響する環境要因(日光、空間的特性、気象、その他)の干渉によって自ずと発生し変化し続けている状況の事だとすると、このときの「群声」はまさにそういうものだったと思う。
ワークショップ前半のリスニングエクササイズを経ているとはいえ、参加者・声主達が全員の(自分を含む)声を個々に聞き分けながら発声することはかなり難しい。実際人数が多いと「ゆっくり声を大きくしていく」というインストラクションを提案しておいても、誰かが思ったより早くボリュームアップする確率が高くなる、そして人数が多いことでその変化に即座に反応していく人数も絶対的に多いことから全体としてすべてが急激に展開することも多いのかもしれない。それぞれに物理的に近距離にある声、気になる・良く聞こえる声に反応することもあるだろうが、声の重なりで生まれる雰囲気(音程的な影響よりもエネルギーの状態?)に影響されている、あるいは自らの声を「群声」の只中で保持し続ける意識、あるいは保持することには関心がなく思い切って声を大きく響かせ変化させてみたり、そういった異なるフォーカスが少人数の時よりも大きく反映される。

簡単な比較で言うと、少ない人数の場合、声々の間(例えば、輪を作ってその真ん中)に身を置き、意識/耳を特定の方向に向けるだけでもディテールや変化・干渉を聴くことができる。藪に分け入る必要がなくて、軽く整備されたフィールドか何かを見渡すようなスムーズさがある。

これを「声」≠「意見」のように比喩的な構造で考えるとわりと当たり前の状態だろうと理解されるかもしれない。40人以上もの個人がいる場合にお互いに全てを聞き分けてその関係性を「ひとつの声(々)」として聴くことはかなりむずかしい。そこでディレクションが実際には必要だったり、モメンタムを作るためのルール/モチベーション/操作を誰かが判断して行う、あるいは事前に何かしらのキッカケや展開を相談し「合意形成」をしておくことが求められるようにも感じられる。

人数が増えれば増えるほどそういう要素の有無は際立つのではないだろう、と思えた。わたしはどちらかというと最低限の(しかも解釈の余白が大きめの)インストラクションや提案からいかにして声々が自然発生的な形を持ち得るのかを聴いてみたいため、もしかすると大人数を相手にするのはもっと工夫を要するのかもしれない。それぞれが自律的な小グループで別々のインストラクション(合意)を作った上で、グループごとの干渉に関しても何かしらのインストラクション/ルールを設けてみる、というような基本的なアイデアを試していくなかで、もう少し見えてくるかもしれない。多摩美でも多少は試みたが、会場の反響特性からくる、音の越境性に対する試行錯誤がもう少し必要だったかもしれない。それぞれのグループが互いに聞こえるけれど、引っ張られすぎない位置だとか、ものすごく影響・干渉する位置など、聞こえの距離感を活かす方法・インストラクションがあると良いのかな、と思った。グループごとの声々がその距離感を意識しながら、意図的に動いたり、声を変化させるような大人数、複数グループによるセッションならではの方法やプロセスがあるかもしれない。



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