FIELDNOTES/ハミングとは(ある種の抵抗?または戦術となり得るかもしれない)?

2025年10月時点での「ハミング」に関する理解、考察のノート



閉じ(られ)た口、でさえ、わたし(達)は(声帯あるいは身体、また連帯する意思、によって振動を生み)、あなた(達・を含む世界)と共振する(きっかけを作る)ことはできる(だろうか?)

「声」という言葉から連想される状態は、たぶん、少なくとも以前の私にとっては、口をひらいた状態であったと思う。このプロジェクトを「声を挙げ、絶やさない」と名づけ、そのプロジェクトの<グランド・インストラクション>としたときも、きっとその「声」は開かれた口から発せられていたと思う。 と同時に、「声挙げ」では何を「声」とするのか、という定義を最初から設けてはいない。方便から声帯を使って発する、おそらくもっとも一般的な、「声」を使ったエクササイズを(現在も主たる)探求の手立て、入口、としていはいるが、ワークショップが3時間あるとして、最初の2時間は発声どころか、ほとんどを「聴く」こと、そして「聴くこと≒想像すること」という体験(的理解)の拡張に費やす、ところからスタートすることが多い。機会が沿う時には「声」とは何か?というコンセプチャルな議論のみに費やすセッションがあってもいいと思っている。
だが、何故か、本当にどういうわけか覚えていないけれど、そして今はそれがCOVID19の影響(マスクをしろ、口を開かないほうがいいみたいな状況)であったか、ある種の音楽・音響的になるべくシンプルかつミニマムなところからはじめようという選択であったか、それらが入り混じった結果そうなった風な事であったかな、などどと思っているが、何にせよ最初のセッションを「ハミング」中心に行い、その響きに感動し、その響きが体現し、示唆し得ることに非常な可能性を感じとった。以来、「声を挙げ、絶やさない」ではハミングを探求してきた。

2021年の夏に名古屋芸術大学の学生達と行った声挙げの最初のセッションでは、何度か準備のためのワークショップの後に録音・録画のための「本番」的な日を設けた。当日、会場に集まった参加者達には家を出る前に以下のインストラクションをメールした。

"朝起きて、最後の呼吸法と「チューニング」を行う。
集合地点までチューニングした音・声に集中し、
それぞれが育てた声を持ち寄る。
この間ずっと、誰とも話さない。

[育てた声を小さく挙げる(何度も何度も)]
合図の後に、集まった人たちそれぞれが声を小さく挙げはじめる。
なるべく長い息を使いながら、何度も息継ぎをしつつ声を挙げる。"

合図の後、わたしに聴こえてきた響き、その震える様、は文字通り彼らがその日の朝から、あるいは準備期間の1ヶ月をかけて胎動しはじめた、またはその以前から彼らが抱えてきた何がしかの振動、その種、が空間にそっと放たれ、互いに重なりを求め始める様、「誕生」的な瞬間にしか生まれ得ない響き、それであった。それは「声の原形」に近い何かであったと思う。声主それぞれ・時々に固有の身体コンディションをダイレクトに秘めた振幅・振動、あるいはそれらが凝縮・圧縮された響きの重なりだったのかもしれない。
薄氷を踏む第一歩のような全神経を集中させた状態で彼らが発した瑞々しい声々/コレクティブなハミング/誕生の振動が会場に放たれた瞬間、確かに会場の空気は静かにだが0と1の違いほどにクリアにアクティベイトされた。「うわ・・・」と思ったが早いか、それは音速で、わたしの体表へと至り、全細胞を揺さぶって、わたしの核心へと振動を伝える、と同時にわたしを包んだ。大げさな言葉になるがこれまで経験したことのある響きの中でも最高のもの、その一つ、であった。「まさか、こんな形・所で出会うとは」という驚きと「この響きをずっと聴きたいと願っていた」という邂逅の想いとが入り混じり、その周縁の感情とこみあげてくるあらゆる感動で満たされ、何となく思い描いていた展開を一度脇においてその響きに没頭し、それがいつまでも続くことを願った。同時に、この音が生まれてきたきっかけとなったインストラクションに自分自身も最大限コミットし続けようと、この響きの行方を全神経をかたむけリスニングした。

後から考えて、その振動はハミングによってしか実現されなかったのではないか、と考えるようになった。ハミングは口を閉じて発声することから、ある種ミュートがかかった音とも言えるが、発声というよりも、発振するニュアンスが強く、ハミングすることで声主の体内の膜や空気、細胞が発振し響きが生まれ(はじめ)る。
口を閉ざしているビジュアルに引っ張られたアナロジーかもしれないが、それはまた「響きの蕾」のようなものかもしれない。複雑なプロセスによって可能な条件が揃い、かつその後に来るべき「あるきっかけ」、誰かがそれを聴くこと、誰かの身体と共振するとき、によって響きは解放され「開花する」。そのようなプロセスを内包した響き、それをトランスミットする行為、がハミングなのかもしれない。この特性はハミングの状態から口を開いてみるとよくわかる。口腔内空間の形状が変化し、舌の位置や、歯との距離感、その他の要因からなる総合的な結果、ハミングはあらゆる音声になる可能性を持っている。そういう意味で、ハミングは「声以前」あるいは「未分化な声」とも言えるかもしれない。

コレクティブにハミングを行う時、そもそも個々の声やその声の主などが特定しづらい匿名性の高いフォーマットである合唱的な特徴が、「閉ざされた口(々)」から生まれる振動による「ひとつの声(々)」の持つ特有の無指向性(360度全方位に広がる音の意)、誰がどのように声をだしているのかわからない(逆に言えば誰が声を出していないのかもわからない)というアノニミティがより体現される。 このことは記録映像を見返してみるとよりはっきりする。用意に想像できると思うが、「ハミング」をしている人達を映像におさめても(音声がなければ)ただただ突っ立っている人達にしか見えない。実際に記録映像を使って展示作品を作ろうと思っていた身からすると、これは非常にチャレンジングな素材だった。わたしは率直に言って困ってしまった。だが、しばらく見続ける内に、いろいろなことが見えて・感じられ、これはむしろかなり面白い素材ではないか、と思うようになった。ハミングしている人達の姿は、ただただ突っ立っているのではなく「真剣に突っ立っている」姿だった。ハミングがもたらす集中状態、人の目には(映像を通して)見えにくいが、実際に振動しているはずの彼らの身体が写しだされた様は、独特の強度を持ったた佇まいになる、ことが多い、と気づいた。

口を閉じていても声は発することができる、どころかその独特な響きはまた強さを秘めてもいる。この事実は、様々な理由・状況で「口を封じられた・閉ざされた」状況に対するメタファーとして、具体的に希望のあるものだ。声主の外側と内側の両方向に対してほぼ等しく振動・エネルギー・熱を伝える指向性を持っているという点もまた、まわりまわって「声を挙げ、絶やさない」という、サバイバルのための、グランド・インストラクションへの応答として、その基本的な形のひとつとして、生命線として、ハミングを選んだ理由(の一つ)と考えることもできる。わたしは今や「ハミング」に必然性を感じている。ハミングは静かな、それでいて強固な意思と抵抗力を育て、またそれらを体現し、伝え得る響きである、と同時に戦術にもなり得る、のかもしれない、と。21年の8月から4年ほど経ち、あの時の経験とそれ以降重ねてきたセッションの中で、特に鳥取での連日・連続・複数会場におけるワークショップを通して、こうしてある程度「ハミング」というものを「言葉」によって手繰り寄せられたように思う。

追記:ボイストレーニングを受けていたという参加者からのフィードバックで、正確に音程を確認する訓練にハミングが多用されるという話しがあった。彼女によればハミングをしながらいろいろな音程(周波数)が体のどの骨や腔(副鼻腔など)と共鳴しているかを感じたりする際にも用いられることがあるそうだ。



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