2023年10月25日、台湾、台東縣、達仁郷、土坂にて行われたTjuwabar Maljeve*に参加する貴重な機会を得た。
*台湾原住民族の一つであるパイワン族の部落ごとに五年に一度だけ開催される神聖な祭事。
祭りの雰囲気:最後の場面を含む10分くらいの映像:YouTube
音のレファレンス(26:00-28:00の歌は儀式の前に村の中で歌っていたものではなかったか?定かではないが雰囲気を伝える補助的な音源として記しておく):YouTube
土坂村に入ると、色鮮やかな部族の衣装をまとった原住民の人たちがバイクに二人乗りや子供を含めた三人乗りで儀式の会場の方に向かったり、若者たちの一団が村の中を行き交っている姿を目にしたり、どこからともなくチャントというのか歌といっていいのかわからないが何人もの人たちが合唱しながら家から家へと歩いている声が聞こえて来る。全ての儀式は約1週間ほどかけて(あるいは公表されていない準備段階の儀式などもあると想像すればもっと長いのだろう)、クライマックスの儀式へと向かう。その儀式がいったいいつはじまったのか明確ではなかったが、土手に腰かけて「いつはじまるんだろうな」と、思っていたが、しばらくして気づいた、それはもう「はじまっていた」ということに。
この時に体験したことは「声」、特にコレクティブな声(々)、に関してこれまで主にもっていた理解の中に、言語化してはいなかった大事なレイヤー・側面を強く印象づけるきっかけになった。その理解に関して一言で(は無理だが)敢えて書くとすれば・・・無形・非物質性の声を編み・組むことで生まれる「構造(体)」がある、ということだ。
それは空間的だ。それはレンガを積みあげたように固定はされていないが、風がふいて崩れるほど儚くはない。草木が風に揺れる程度の動きはあるが、音楽ほど饒舌に物語が次から次へと展開するわけではない。儀式のための物理的な舞台として期間限定的に組み上げられた「祭場」がまさに体現している、「構造(体)」の性質。実際にえんえんと繰り返される声のリフレーンは円環性を持ってはいるが、サイクルやループ性がことのほか強調されているわけではなく、いくつかの合唱の声(のそれぞれの内部にもずれや重なりがある)がずれたり重なったりすることで、むしろ声のかたまりのようなものがホバリングする印象だ。一定的に留まり、存在し・存在し続ける(のではないか?)、というニュアンス(と予感や残響感)を基底にした「(時)感(覚)」をもたらし、儀式的な領界を結果的に顕然させる。
ある種の「構造(体)」、「コンストラクション」(≒流れ動くものではないというニュアンス、を言おうとしてこの言葉を選んでいる)のマテリアルとしての声、とか。そんな感じだろうか?
この儀式の表立って見えている手順はそこまで複雑ではない。メインの十個のラタンボール(なるべく高くなげられるように持ち手として一本のラタンがしっぽのように伸びている。ハンマー投げのハンマーと似たようなアイデア?)が用意され、草木によって組まれた円形の柵のような造形物の上部に10-12メートルはあるように思われる長い竹の竿をもった男たちが腰掛けており、若者がラタンボールを上空に放り投げ、用意されたすべてのボールが突き刺さるまで同じような行為が繰り返される。
この儀式には時計の時間は存在しない。その場の時・感・覚を生み出しているのは声だ。声だけではないが、中心にあるように感じた。いくつかの家族が同じに思えるが微妙に異なるようにも思えるいたってシンプルでプリミティブなフレーズをそれぞれのテンポ感、タイミング、音程で繰り返し発しする。声(々)は重なり、その不思議な重なりの届く範囲の全ては、集まった人たちの存在やウロウロしている犬や鳥、祭場のそばを流れる川、その背後の山々、風、辺りの目には見えていない動物、植物の一切、は揺らぎはじめ、不思議な振動を作り始める。
この声は非物質的な儀式のタイムフレームという時間性のみならず、その「場」そのものであり儀式の存在する束の間の空間的な土台となり、ある種の構造(体)=「時空」をつくる。
まずラタンのボールを持ったシャーマンが登場し、竹竿をもった男たちの輪の内側で呪術を行う。このとき彼女が発している小さい「声」も輪の外にある声の重なりと混じりあい=「時空」がまた動きだす、すかさず儀式の進行を司る男の一際大きく強い掛け声が中空に発せられ、周囲の人々がそれに応える。そうすると、その場(領界内)にいるすべての人達の視線と時間が若者の手から天高く投げ出されるラタンのボールへと集約されるきっかけを生む。ボールが儀式空間の空高く放り投げられる。ボールが最高点に達したとき、「声の時空」も吸い込まれ、「世界」がそこに集約し、空中で一点の収束点となり、すべてが束ねられる。おそらく象徴的に、そして感覚的な全投影によって実際に領界とその中のすべてがそのラタンに束ねられるのだ。竹竿をもった男たちは竹竿を動かし始め、ラタンのボールを突き上げようとする。落下してきたラタンのボールが誰かの竿にうまく突き刺さると、拍手や歓声がおき、刺した男は手渡された小米酒(粟酒)を一杯飲み干し、祝福を受ける。ついさきほど一点に集約された領界が緩まり、解け、しばし辺りの草むらに腰掛けて休んでいるかのような雰囲気が流れる。突きさされたラタンボールが回収され、また新たなボールが用意され、同じ手順をたどりはじめた儀式が進行しはじめると、散り散りになっていた「時空」が、人々によって口ずさまれるシンプルなフレーズのリフレインの重なりの中から再びゆっくりと、だがしっかりと、立ち上がり、また「時空」が現れる。若者がラタンのボールの持ち手を持って、呼吸を整え、上空を見据え、ボールを前後にゆらしはじめる。振り子のように揺れるボールの動作に合わせて「時空」もまたゆらゆらと動きはじめる。
この場では「声」は、ラタンや竹といった草木を編み・組んで作られた儀式のための物質的なコンストラクション(儀式会場や儀式の道具)と通じるテンポラリティーを持つものである。それは決して儚いものではない。ラタンや竹と聞くとあたかも「一過性」のマテリアリティーが強調されているように思えるが、実際のところそれなりに手をかけさえすれば信じられないほど時間耐性が強いものだ。さらに自然物という総体を象徴していると考えるなら、繰り返し再生される性質は明白であることから永続性をも示唆しているだろう。もっと踏み込んで言えば、おそらくパイワン族にとっての祖霊=継承されてきた部族そのものとしての文化、を体現しているものではないだろうか。重なり合うことで空間的な結界と構造(体)を祭事に与えたあれらの声は草木とともに編み・組まれ儀式の場とその領界の動的・静的両面にとって不可欠なマテリアルである、と考えることができるのではないだろうか?
草木、声、ゲーム的な行為、群衆、その他もろもろがそろいようやく生まれる五年祭の「時空」。その時に声は実際的にもその構造(体)における非物質的な支持体、あるいはフィリングなのかもしれない。
誰よりも短い竹竿を持つ守護者/ガーディアンと呼ばれる男がラタンのボールを突き刺した瞬間に、儀式は突如クライマックスを迎える。その瞬間におそらく結界が破られ、領界が崩れる。すると堰を切ったかのように霊的なバランスが崩壊し、時空を生み出していた歌声は悲鳴にかわり、男たちがナタや刀を振るって構造物を破壊する。と、同時に声や声主達も散々に走り出す。本気のダッシュだ。カオスと笑い声、怒号と笑顔、そこに矛盾はない。避難訓練のような惰性も微塵もないが、緊急事態という張り詰めたものでもない。川底の大きな石を動かした時に巻き起こるマイクロなエコシステムに起こる激変、水流に起こる一時的な乱れ、と同時にひいてみたときに「川の流れ」自体はマクロに言うとほぼ何も変化していない、と言うような。破壊された儀場の残骸、壊された草木がそのあとおそらく手順を踏んで土にかえるように、あれらの声はひとつのものから分かれ、その場で振動をともにした人達に宿り、また5年の後に再生されるまでの期間をきっとひっそりと過ごすのだ。
そういえば、祭りのあとにあのシンプルなフレーズを思い出そうと思ってもうまく思い出せない、ということを経験した。儀式の会場に向かう時に村の案内役の方が「録音や録画はしてもいいけどおすすめしません、なぜなら悪霊がついてきてしまうことがあるので」とユーモアをこめタブーを伝えてくれていたのでわたしは持っていったレコーダーやカメラを使うことをしなかった。このため音源や映像が手元になく、自分の記憶を頼るしかなかった。それにしてもあの声の重なりを作っていた基本単位となるものはかなりシンプルなフレーズであっただけに不思議に思ったが、何度歌おうとしてみても何かが違う、という感じを拭えず、頓挫する。わたしのような部外者でさえ祭りの時には村の人達に合わせて一緒に口ずさむことができたのだが、あの振動の本質みたいなものはきっと生まれてから5年に一度あの振動の中に身をおき、育ち、自ら口ずさむことを繰り返すことで徐々に浸透していく、そういうチューニング期間を要するものなのかもしれない。もちろんその他の生活・文化的な要素もそのチューニングを確たるものにするのだろう。これが一度や二度参加した程度のわたしのような者ではあの「声」の振動を自ら発しジェネレートすることはできないのかもしれない。そういえば村の若い子供達の何人かは何かメモのようなものを見ていたようにも思う。もしかしたら彼らがあのフレーズを誰の助けもなく口ずさめるようになった時、五年祭はその世代に継承された・されるのかもしれない。彼らが理解していようがいよまいが、すでにその体に振動が宿ったことでそれはきっと可能になるのだ。口承文化における強さ(あるいは弱さ)はこの「理解」を度外視するメカニズムにある。バイブレーションが主体となった時に、人は単なる媒体であるに過ぎず、個々の理解はさほど重要ではなくなる、伝統と呼ばれるこの振動が戦術的に存続・伝達・継承され、誰かに宿り意のままに再生可能となった時に、それは確実に生きた形で再生され(続け)る、ことが担保される。それが口承の主眼なのだ。振動という現在性に特化したメディウムに頼ることを決めた伝統は、確実に、アライブな状態でなければ意味がない、そういう意思表明でもある。
あの日、わたしが出会った時空の性質を(ほんとに)たった一言で言うならば「自然」だと思う。儀式が行われた日も、その前後日常的な時間にも、村の人達の生活の背景には、しっかりと確かにそびえる山々がある。その山は、周期的で正確無比な手順をおってはいるものの、グリニッジ時間的な意味ではかなり不確定で動的な「(時)感(覚)」によって遷り変わる。わたしたちはそれを「季節」と呼んだりしている。春夏秋冬という言葉があてはまるのかはその土地それぞれだが、台湾にも、土坂にも季節はあるし、あの花の季節、とかあの果物の季節、とかそういうものがあるだろう。それらは確かにあるけど、時計では計れない。それがだいたいいつ頃というのは言えるが、厳密に何月何日だかは何かが咲いて、あるいは実ってはじめて、あー先週くらいから春だね、となる。他の部族でも往々にしてそうだがこういった催事もわりとギリギリになるまで日付が発表されないことが多い。だいたいこのくらいの時期に、という感じでは共通理解があるのだが、いついつということまでは事前にはっきりしない。まさに「季節」のような感じの「自然」の(時)感(覚)というか、摂理というか、ルールというか。そういうものと同列の(時)感(覚)を持った「時空」に、あの日わたしは触れた気がする。そして声はその領界の主たるマテリアルの一つであった、と。
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