THE WAY I HEAR, Lake Towada 2013 |
About the Project Performance/Composition |
乗務員が乗船客に案内があるまで開いて読まない様に伝えながらプログラムを手渡す <音源、アナウンス/ 遊覧船: 出発前、停泊 / エンジン音; 無し> <アナウンス/ 遊覧船: 出発 / エンジン音: 最小> |
<プログラム最初のページ見開きのテキスト> (ページ左側) すでに日が暮れ始めていて、遠く広がる湖一面に金色のさざ波が輝いている。 休屋の桟橋に着くと、ちょうど陽が山間に沈みはじめ、 船が見えるあたりに腰掛け、耳を澄ます。 (ページ右側) 18時47分 その場を離れようとして立ち上がり、湖に背を向け歩き出す。 |
<アナウンス/ 遊覧船: 遊覧中 / エンジン音: ギアをあげていく> 今日はどんな様子ですか? 湖畔からは何か聴こえますか? 船の中は? 船のエンジンの振動 そのエンジンにギアが入り、一段と大きな音がする 船の後方でモーターが水しぶきをあげる アナウンスの声はかき消され、遊覧がはじまる」 |
西湖から中湖へ移動する間、しばらくアナウンスなどはない <船長マイクアナウンス/ 遊覧船: 全速力 / エンジン音: 最大> 「間もなく湖全体を見渡せるポイントを通過して参ります |
<音源、アナウンス/ 遊覧船: 遊覧、スローダウン / エンジン音: 減衰> 「プログラムをお手元にご用意下さい、先ほどのページを上へめくり、次のページを読み進めて下さい。 2013年6月26日 漁師の方を取材する」 |
(ページ右側) 「GPSが無かった頃、朝霧が出た時はさ、 きっと、あの日の朝も濃い霧が湖を覆っていたに違いない。 (ページ左側) |
<アナウンス/ 遊覧船: 浮遊 / エンジン音: 最小> <アナウンス/ 遊覧船: 停止、浮遊/ エンジン音: 無し、最小> 「1100年前のあの日、8月にしては肌寒く、東風が強くふいていた。 915年8月17日 えぐった様に開かれた火口の奥底に、 |
<汽笛、3−5秒> |
<船長マイクアナウンス/ 遊覧: ゆっくりと動き始める/ エンジン音: ギアをあげてゆき、音が大きくなる> 西湖へ向けて戻るしばらくの間アナウンスはなし |
<音源、アナウンス/ 遊覧: ゆっくり遊覧/ エンジン音: 最小> 「十和田湖を取材中、早朝のガイドウォークに参加した ガイドの方から、湖畔に植わった樹々の話しなどを聞きながら、 その「乙女の像」から、十和田神社へと入って行く辺りで、 その伝説、というのは、 昔々、紀州熊野神社から出て諸国に修行をした南祖之坊という僧侶が十和田湖にやってきた。 という様な話しなのだが、 彼女は「たぶん、ただの伝説だと思われたでしょうねぇ、でも私が子供の頃はねぇ・・・」と言って、お祖母さんからこの話しを聞かされ、この辺りの岩や土で赤いのは大蛇や龍の血の色なんだ、と思い込み、一種の恐怖心をずっと持ち続けていた、と教えてくれた。 伝説の中に、幾重にも折り重なったメッセージと、人々の畏敬の念がこだまする ここはどこだろう、と黙って聴く。 顔に吹き付ける風、 そして一隻の船が岸に近づいていくのが聞こえる」 「桟橋に着いたその船は、エンジンのギアを落とし、 私は、もうしばらくこの辺りを歩き、耳をすましてみる事にした。」
(短い音楽のフレーズが流れる) 「これで本作品の湖上遊覧は終了いたします。 また、お帰りになる際には、チケット売り場にて、 それではお忘れ物等ございません様に、今一度、手荷物等をお確かめの上、船をお降り下さい。」
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(プログラムの最後の封されたページ) 「湖上の静寂」 915年の十和田火山大噴火によって周辺地域は壊滅的な被害を受けた。しかし、主要な街道付近で10世紀以降に集落が急増したことが安比川流域の発掘調査などからわかっていて、先人達が力強く復興に立ち上がった姿が想像出来る。十和田湖周辺はどうだろう、と噴火以降の遺跡分布図を調べると、まるで避けた様に湖の周囲だけは集落の痕跡が一つもない。もちろん、それ以前から大小の噴火があり、山々が高く険しかった事などを考えると、人も寄り付かず、集落と呼べる様なものはそもそもはじめから無かったのかもしれないが、私はそこに何か意図的なものを感じた。 きっと、先人達は復興に尽力すると同時に、噴火の恐怖を「大蛇」や「青龍」の姿に託し、子孫達に警告を発したのだろう、八之太郎と南祖坊の伝説は様々な前後談を伴いつつ、あたかも火山灰が降り積もった範囲を示すかの様に東北各地で語り継がれている。火砕流の進路となった秋田の米代川が、八之太郎(別名:八郎太郎)が逃げて行った先とされる「八郎潟」へと通じることも、単なる偶然ではないだろう。そもそも八之太郎は谷川で捕らえたイワナを一人占めした事から大蛇に化けるのだが、そこに、大蛇は魚を食べ尽くす、又は湖には魚も寄り付かない、だから人が住むには適さない、というメッセージの展開が垣間見えるようだし、ヒメマス養殖の成功まで十和田湖には「魚が一匹もいなかった」と言われている事とも響き合う。八之太郎に勝利し湖の主となった南祖坊が入水し、青龍となったという結びも、裏を返せば、龍は今も息をひそめていて、誰かがむやみに近づけば、再び火を噴き、暴れ出すかもしれない、という「無言の警告」とも受けとれる。 私は、こうして十和田湖にはりめぐらされた「結界」の内側に想いをはせ、耳を澄ましてみた。その静寂の中に誰か居はしまいか、と。 十和田神社周辺は古くから東北有数の霊場で、山伏達の修験の地だが、青龍大権現として南之祖坊を祀った社や、金ノ神、つまり鉱山の神の祠もある。修験者と鉱山の関係はよく言われるところだが、地図を見ると十和田湖の西岸には鉛山や銀山という地名があり、「南部領内鉱山紀念」によると鉛山の方は江戸時代初期に発見されている。 江戸時代初期、鉱山、南部藩・・・ 戦国時代の日本における大きな潮流の一つに切支丹信仰があり、大名から農民まで貴賎を問わずに多くが入信したものの、秀吉の禁教令以降、続く徳川三代によって衰滅した事はよく知られている。大迫害を生き抜こうと、多くの信者や宣教師達が関西や九州からも東北の鉱山に逃げ込んでいる。当時の鉱山は、鉱夫の出自は不問で、領主達も貴重な労働力として彼らを黙認したため、切支丹達にとっては苦役と引き換えに信仰の安住を得られる場所だったのだ。宣教師の報告書によれば、伊達政宗の重臣、後藤寿庵は棄教を迫られ南部藩に逃亡したとあり、藩の記録でも彼の弟子や他の切支丹が確認されていて、十和田湖に近い鹿角郡には金山もあった事から領内に彼らが出入りしていたのは間違いない。幕府はやがて弾圧を強め、鉱山にも「山狩り」と呼ばれた捜索の手が入る。調べてみると1639年に南部藩でも山狩りが行われていて、鉛山が発見された1665年にも切支丹与兵衛という者が処刑されている。これが南部藩最後の殉教記録なのだが、私は彼らが死滅したとは思えず、どこかに身を潜めたのでは、と考えた。だとすればそれは、人を遠ざけてきた十和田湖の「結界」の中ではなかったか、と。 十和田湖の西岸に小さな礼拝堂があると聞き、やはり!と思ったのも束の間、礼拝堂は戦後に米国人宣教師によって建てられたもので、切支丹とは関係がなかった。だが、何か判然としない気持のままだったので、せめて礼拝堂を一目見ようと、草木が茂り細くぬかるんだ水際の道を進みながら、彼らが生きのび、人里離れたこの地に逃げこんだとすれば、日々の糧を得るために鉛山で再び鉱夫となったかもしれない、時々はこの湖畔で祈りの言葉を唱え、賛美歌を歌ったかもしれない・・・などと想像していると、雲行きがあやしくなりだしたので、しかたなく私はもと来た道を引き返した。その後も、私なりにあれこれと資料をあたってみたが、濃い霧が立ちこめるかの様に、彼らの姿はかすみ、耳をすましてみたものの、噂以上の音沙汰は知り得なかった。 果たして、あれは聞き間違いだったのだろうか? いや、私は確かに、湖上の静寂に何かを聴き、 2013年9月 mamoru
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